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「AI vs 教科書が読めない子どもたち」

更新日:2022.1.12|1(2週間) / 48(累計)

「AI vs 教科書が読めない子どもたち」
AIの研究者として知られる新井紀子先生の著作です。

AI技術が人類を滅ぼすシンギュラリティなんてものは来ない。
AIは高度な計算機であって、記憶や計算は得意でも、本質的な意味の理解などできない。

しかし、人間固有の基礎の力、特に読解力を子どもの時代につけておかないと、必然的に機会に仕事を奪われる、雇用を失うというような内容でした。
いまや中学生の二人に一人が教科書をまともに読み解けていないという、深刻なデータも掲載されています。(リーディングスキルテスト)

似たような話は他にもあります。
今日、AI翻訳機の進歩が加速しており、すでに日本人の平均的な語学力を完全に超えていると言います。

東京オリンピックまでには多言語に対応する翻訳機が普及するそうで、そうなると言語習得よりもグローバルな人間力こそが必要なのではないか、としきりに言われるようになりました。

これもまた、人間固有の力を問う課題です。

AIの性能の進化について言及する力を私達は持ち得ませんが、その著しい変化が人間力の根源を問い直す大きな契機となっていることは確かです。

それをある人は「創造力」といい、ある人は「身体知」ともいいますが、ここではAIが代替することのできない人間固有の力、「三つのカン」(感・勘・観)について考えてみましょう。

【感と勘、初期の芽生え】
一つ目の「感」は、楽しいとか悲しいとかを感じる感覚や共感の発達のことを言い、その経験から二つ目の「勘」である「勘所」を体得していきます。
その上で初めて三つ目の「観」としてビジョンや大局観が体得されるというプロセスが踏まれるのです。

これら三つのカンを考えてみると、とりわけ最初の「感」と「勘」はいずれも幼児期に置いて初期の芽生えを促すことが重要であると言えます。
入園間もない子ども達にとって、毎日の園生活が「感」そのもの、家庭とは異なる様々な私益を受け、それによって「感」のスイッチを全開にします。

年長ともなれば、園生活で積み上げてきた「感」の蓄積が、一定のコードとなって身体の型として定着していきます。

これが「勘」の原型です。

具体的には、指示や説明がなくても作業や運動に集中できる、先生が前に立つだけで姿勢が正される、みんなで一斉に動くことができる。
内面化された身体感覚と言えばよいでしょうか。
状況に対し、無意識のうちに身体の構えが整うのです。


「感」も「勘」も勉強したから身につくものではありません。

確率論によって定着するものでもありません。
そこには、まず子どもが「感」を楽しく受け入れる環境、生活のリズムや繰り返しがあって、さらに多くの仲間との交流や協働の喜びがなくてはならないと思います。

「勘がよい」「直感に優れている」と言われる人ほど、そんな豊かな幼児期を過ごしてきたのではないでしょうか。
そこにはテレビやスマホなど数値化された「感」によって支配されつつある現代の子どもの環境への、根本的な問い返しがあるのかもしれませんね。


幼稚園教育とは、人間性の基礎基本を育む教育です。
では、人間性の基礎基本とは何か。

AI時代において、私たちが見失いつつあるその原型を思い起こし、新たに蘇生していくことが園の役割なのかもしれません。
「保育士不足」と差す言葉が「保育士」指導者を「傲慢化」している事実さえあります。

子どもがいて先生がある。

子ども達にそんな姿勢を伝え続けていく先生であり続けたいと、私達は思っています。
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